The Land of

JUSAN TSUKABARU

朝になると、牛に荷を引かせ、坂道を登って高原へ向かいます。その高原が、十三塚原(じゅうさんづかばる)です。国分平野の北方に広がる台地で、火山灰が幾重にも積もったシラス台地は、足元に水を留めず、広く乾いた風が通り抜けていきます。かつて「糸走(いとばしり)の原」とも呼ばれたこの場所には、昭和初期まで菜の花畑が一面に広がり、春になると花見客が絶えなかったといいます。

霧島のヒサエもまた、茶の苗を植えた一人です。畜産を営みながら、この土地に茶を植え始めました。黙々と手を動かし、家族と暮らしを支え続けながら。この小さな一歩が、後に続く今村茶園のはじまりとなります。

Hisae Imamura with family in a tea field, with the opening of Kagoshima Airport in the background (今村ヒサエと家族・茶畑にて、鹿児島空港開業を背景に)

A SEED IN THE SOIL

やがて1960年代に入ると、状況は大きく変わっていきます。海外では日本産紅茶の競争力が落ち、国内では緑茶の需要が広がっていきました。生産の中心は次第に紅茶から煎茶へと移り、鹿児島は日本有数の煎茶産地へと発展していきます。ただ、今村茶園にはひとつ、変わらなかったものがあります。ヒサエが最初に植えた在来種「やまとみどり」——その株は、煎茶の時代になった今も、紅茶として生き続けています。

January 15, 1925 to January 13, 2014

HISAE

IMAMURA

今村 ヒサエ

鹿児島県姶良郡嘉例川村迫間に、八人兄弟の次女として生まれる。幼い頃から畑や牛とともにある暮らしが日常だった。穏やかな性格でありながら芯は強く、我慢強い。どんな時も声を荒らげることなく、黙々と手を動かし、家族と暮らしを支え続けた。畜産業に従事しながら茶づくりに携わり、その手を止めることは最後までなかった。手芸や編み物を好み、冬の夜には家族のために手を動かした。蕎麦打ちは近所でも評判で、人をもてなすことを何より大切にしていた。強さを誇ることなく、努力を語ることもない。ただ、与えられた土地と役割を受け入れ、静かに続ける——その姿勢こそが、今村茶園の原点となっている。

Yoshiharu Imamura during his engineering career in Tochigi, Japan (今村義治・栃木でのエンジニア時代)
 

Engineer’s

STARTING POINT

1948年、鹿児島県姶良郡隼人町に生まれた義治は、高等専門学校を卒業後、日立製作所へ向かいます。高度経済成長期です。日本の産業が大きく拡張していく、そのただ中でした。

当時、産業の関心は「陸」から「海」へ、そして「宇宙」へと広がりつつありました。義治もまた、資源を海に求める海洋開発に強い関心を抱いていました。

ただ、最初に配属されたのは空調関連の新工場立ち上げプロジェクトでした。

思い描いていた海の現場ではなく、巨大な工場の内部です。そこで義治は、約四年間にわたり製造ライン全体の管理と制御に携わることになります。自動制御、アッセンブラーによる制御系ソフトウェアの開発。日本ではまだ前例の少なかった、世界最先端レベルの制御技術を、プロジェクトチームの一員として実装していきました。

思い通りの場所ではありませんでした。それでも、そこで手にした技術と視点は、後に義治の茶づくりの根幹を形づくることになります。

Yoshiharu Imamura in a tea field in Kirishima, Kagoshima, Japan (今村義治・霧島の茶畑にて)

THE DECISION TO RETURN

エンジニアとして最前線に立ちながらも、霧島からの声が届くようになります。

「帰ってきてくれ」

家族からの、その一言でした。会社を辞める決断には、三年の時間を要しました。生産技術部に籍を置きながら、悩み、考え、責任を果たした末の選択でした。簡単に手放せる仕事ではなかったからです。

義治が戻ったのは、妻・純子の故郷でした。今村家の養子として名前を継ぎ、この土地で生きていくことを選びます。

動画を読み込む動画を読み込む

It Means NOTHING WITHOUT YOU

空港の開港から約三年。周辺地域で茶の栽培が盛んになり始めていました。帰郷した義治は茶づくりに向き合います。

とはいえ、すぐに茶だけで生きていけるわけではありませんでした。茶の樹が収穫できるまでには数年を要します。その間、純子とともに牛の飼育を続けながら、生活を支えていました。

やがて茶の生産が安定し始めると、義治は茶づくりに専念していきます。それまでは、茶を育てて収穫し、近くの茶工場に持ち込むのが当たり前でした。

エンジニアとして培った視点が、ここで動きます。義治は、栽培から製造・加工までを自分たちの手で一貫して行える製茶工場を建てました。その隣には、ヒサエの牛舎がありました。ヒサエは牛の世話をしながら、お茶の仕事にも手を貸していたといいます。

できあがったお茶の大半は、問屋や茶商、茶市場に出していました。ただ、それだけでは自分たちの茶づくりを最後まで届けることはできません。やがて牛舎は焙煎工場へと姿を変え、焙煎から販売までを自分たちで手がけられる体制が整っていきます。

茶畑もまた、広がり続けました。義治の代で約18ヘクタール。東京ドーム4個分です。

動画を読み込む

当時、鹿児島のお茶の多くは、他の産地に送られてブレンドの材料として使われていました。色をつけたり、味を補ったり、量を増やしたり。鹿児島の茶が「鹿児島の茶」として届けられることは、まだ少なかった時代です。

義治が出会ったのは、福岡・八女の問屋でした。

八女のお茶は、霧島とはまるで違います。香りが強く、旨味が深く、飲んだ瞬間に体の中が持ち上がるような力がある。霧島の茶が持つ穏やかな甘みとは、別の方向です。

義治はこの八女の問屋のもとで、求められるものに応え続けました。もっと良いものを。もっと上を。簡単ではありませんでした。機械は設定した通りに動きます。茶の樹は、そうはいきません。土も、気温も、雨の量も、毎年違います。同じ畑でも、去年と同じお茶にはならない。

それでも、その声に応え続ける年月が、今村茶園のお茶の味をつくっていきました。霧島にありながら、霧島茶の一般的な方向とは違う。飲んだ瞬間にわかる力強さ。それは、八女の問屋との歳月が土台にあるからです。義治の手は、工場で制御盤に触れていた手です。その手が、今度は一枚一枚の葉に触れるようになりました。硬さ、柔らかさ、厚み。朝と夕方で違う。昨日と今日でも違う。その違いを、毎日、毎年、記録していきます。

茶の樹に自分の理想を押しつけると、どこかで行き詰まります。義治がやってきたのは、その逆でした。樹が今どういう状態なのかを見る。聞く。そこから判断する。工場で培った精密さを、自然の中で使うということです。

どれほどの技術や努力があっても、お茶を愛し、飲んでくださる人がいなければ、何も始まりません。

四十年、五十年。義治が積み重ねてきたのは、茶の技術だけではありません。地域との関係、信頼、協力です。集落の中で生き、共に歩むという姿勢そのものが、茶づくりの基盤となっていきました。

動画を読み込む動画を読み込む

義治はよくこう言います。

「全てがお茶に見える。お茶に繋げてしまう。」

お茶と向き合うのも、人と向き合うのも、結果は自分次第です。お茶に染まった人生が、明日も続きます。

Portrait of Yoshiharu Imamura of IMAMURA Tea Plantation in Kagoshima, Japan (今村義治プロフィール写真)

Born August 23, 1948

YOSHIHARU

IMAMURA

今村 義治

鹿児島県姶良郡隼人町に生まれる。国立高等専門学校を卒業後、日立製作所にエンジニアとして入社。自動制御技術の最前線に立った。巨大な製造ラインを動かしていた手は、やがて茶の葉を摘む手になった。帰郷後、今村家の養子として茶づくりを開始し、製造から管理まで一貫した体制を構築。茶園を約18ヘクタールにまで拡大した。全てがお茶に見える——その言葉の通り、今もなお茶園に立ち続けている。

 

Another

FORM OF FREEDOM

ただ、次第に違和感を抱くようになりました。残業ひとつにも制限があり、判断のたびに上司の承認がいる。ひとつのことに没頭し、突き詰めたい。その性分が、組織の働き方とズレていきました。

自由を求めて、外に出たはずでした。そこにあったのは、別のかたちの制約でした。

その頃、霧島の茶園では状況が大きく変わり始めていました。国内でペットボトル飲料の需要が急拡大し、茶の生産はかつてない忙しさを迎えていた。父・義治ひとりでは、とても回しきれない。

2004年、27歳。広嗣は妻・里美とともに、霧島へ戻る決断をしました。「継がない」と決めていた場所に、自ら戻るという選択でした。

風に揺れる茶畑。その向こうに連なる霧島の山々。見慣れたはずの風景が、まったく違って見えました。

戻った先にあったのは、想像以上に厳しい現実でした。週休二日のサラリーマン生活から、休みのない茶園の暮らしへ。その切り替えに、まず体がついていかない。

そして、茶づくりそのものが失敗の連続でした。知識も経験もほとんどない。思い通りに育たない茶葉。何を試しても、納得のいく味にならない。

焦り、自分に問いかける。その繰り返しが、五年続きました。

Hirotsugu Imamura in a tea field after returning to Kagoshima, Japan (今村広嗣・鹿児島に帰郷後、茶畑にて)

TASTE OF FREEDOM

ふと、一つの記憶がよみがえりました。

まだ若い頃、父・義治に連れられて静岡を訪れたことがありました。茶農家の座敷で、一杯の露地茶を差し出される。口に含んだ瞬間、鮮烈な香りが鼻に抜けていきました。舌の上に残る、深く、厚みのある余韻。飲み終えたあとも、体の奥のほうで、何かがほどけていくような感覚がありました。

あの一杯の中に、広嗣は「自由」を感じていたのです。

その記憶は消えることなく残り続け、やがて理想の茶づくりの指針となっていきました。失敗を重ねながら、広嗣は少しずつ、あの一杯に近づいていく。それまでの失敗が、ひとつずつつながり始めました。

十五年が、かかりました。

動画を読み込む動画を読み込むProcessing tea leaves at Imamura Tea Plantation's tea factory in Kirishima, Kagoshima, Japan

義治が築いた茶園を受け継ぎながら、広嗣は自分のやり方を探っていきました。

義治が抱き続けていた思いがありました。農薬を使わず、土の力で茶を育てたい。当時は無農薬の需要が少なく、断念せざるを得ないこともありました。広嗣はその思いを引き受け、有機栽培の畑を少しずつ広げていきます。地元霧島の黒酢や、ニーム——インドセンダンの種から、自分たちで発酵液を作り、虫除けに使う。自分たちの畑に使うものだから、成分のわかるものだけを使いたい。

手間は増えます。リスクも増えます。それでも、この土地が持っている力を、そのまま茶に出したかった。

良いお茶は、畑や工場の環境が整っていなければ生まれません。そしてそれは、一人ではできないことです。家族がいて、地域の人たちの手がある。その中で気持ちよく仕事ができてはじめて、自信を持って届けられるお茶になる。広嗣は、そう考えるようになっていきました。

2013年、36歳。父から、代表としての役割を受け継ぎました。

Hirotsugu Imamura at a tea factory with his daughter on her school entrance day in Kagoshima, Japan (今村広嗣・茶工場にて娘の入学式)
The Imamura family in front of sunflower fields and tea fields in Kirishima, Kagoshima, Japan (今村家・ひまわり畑と茶畑をバックにした家族写真)
Son at his school entrance ceremony in Kagoshima, Japan

最高の一杯を求めて。その歩みは、今も続いています。

Born February 1, 1977

HIROTSUGU

IMAMURA

今村 広嗣

鹿児島県霧島市に生まれ育つ。国立鹿児島工業高等専門学校にて機械工学を専攻。三菱系企業を経て、2004年に帰郷。「継がない」と決めていた茶園に自ら戻り、義治が抱き続けた無農薬への思いを受け継ぎながら、有機栽培の畑を広げてきた。2013年、代表就任。静岡で出会った一杯の記憶を追い続ける日々は、まだ途上にある。

Maison IMAMURA

IMAMURA TEA

PLANTATION LLC.

今村茶園

鹿児島県霧島市。三代にわたり紡がれてきた、ひとつの家族と茶園の物語。1940年代、この土地に最初の茶を植えたヒサエから始まり、義治が工場を建て、広嗣が有機栽培の畑を広げてきた。すぐそばには、人々の出会いと別れを見送り続ける鹿児島空港。茶園は、この空港とともに時を重ねながら、霧島の茶を届けてきた。

Brand concept

 

Our concept, "I want the afterglow of Kirishima to linger on."
comes from a simple wish.

The memories you carry from visiting Kirishima—
the wind of Kagoshima, the warmth of its people,
the feeling of being welcomed by a gentle hometown.

Moments when you think of your family,
your loved ones,
or someone you wish to reach out to.

In those quiet, nostalgic moments,
we hope that a cup of Imamura Tea
will let you feel that afterglow once again.

We are committed to sharing the beauty of Kirishima tea
and the richness of its natural landscape
with people all around the world.

Like the resonance after a bell is struck,
the sound fades, but something still lingers in the air.
We call that yoin — the afterglow.

 
動画を読み込む

About This Project

Company

IMAMURA TEA PLANTATION
Founded 1947

Address

655-15 Karegawa, Hayato-cho, Kirishima-shi, Kagoshima 899-5113 Japan

Contact Information

Tel 0995-43-9162
Fax 0995-43-9260

Hours of Operation

10:00 – 17:00
Closed on Sundays and National Holidays

Tea Master:Hirotsugu Imamura

When I face the craft of tea, I always hold on to a sense of “freedom.”I listen to the voice of nature, break away from fixed forms, and quietly explore the possibilities within each cup.

Producer:Yoshihiro Shimazu

Tea takes me places I never expected—beyond landscapes, beyond time, and sometimes even beyond myself.It keeps leading me forward, and I keep following.

Branding:I.T.P.entertainment

We deliver emotion through stories and tea, crafting moments that stay with you.

Certifications & Qualifications

有機JAS農産物生産工程管理者 認証番号: 1097
有機JAS加工食品生産工程管理者 認証番号: 加工 1108
ASIAGAP Certification Number: MIC-S-A460000095

Imamura Tea Plantation – ASIAGAP Certified Farm, Reg.A460000095, Kirishima Kagoshima Japan
Imamura Tea Plantation – Organic JAS Certified by Kagoshima Organic Agriculture Association, Kirishima
Imamura Tea Plantation – Kagoshima Prefectural Tea Association Chairman's Award, Kirishima
Imamura Tea Plantation – Kyushu Agriculture Director's Award, Kagoshima Prefectural Tea Evaluation
 

PRESENTED BY

IMAMURA TEA PLANTATION

© all rights reserved

I want the afterglow of Kirishima to linger on.